モルト対グレーン&ブレンダー/ウイスキー裁判1

ハイランドとアイルランドの危機感

ターコネル

ターコネル

ブレンデッドウイスキーのなかでも古い歴史を誇り、スコットランドの光と称えられる「ティーチャーズ ハイランドクリーム」を紹介しながら、6回にわたって19世紀スコッチウイスキーの歩みを語ってきた。
今回から“ウイスキーとは何か”という現在に至るまでの定義の根っことなった歴史的事件『ウイスキー裁判』について簡単に解説してみようと思う。まずはその発端を説明する。

1860年に異なる蒸溜所間の原酒の混和が許可され(『ティーチャーズの歩みから探るブレンデッドの歴史1』参照)、それから19世紀後半にかけて、スコッチウイスキー業界は大きなうねり、変革の時代となった。
ブレンデッドの発明がスコッチウイスキーを世界へ広めたのだが、グレーンウイスキーの台頭やブレンダーという新たなポジションの成功によってモルトウイスキー業者の不満、危機感が募ることになる。そしてアイルランドとハイランドのモルト業者が手を結び合う。
ここで何故アイルランドが登場するのか簡単に述べておく。19世紀、大英帝国の一員だったアイルランド(1801年大英帝国に併合。1922年南部26州がアイルランド自由国となり、1949年正式に英連邦脱退しアイルランド共和国に)はモルトの国だった。アイリッシュモルトの天下であった。
かつての記事『ターコネル/アイリッシュシングルモルトの魅力』のなかで述べているが、「ターコネル」をはじめとしたアイリッシュは禁酒法前(1920年施行)のアメリカでは絶大な人気を誇っていた。
ところが1831年にアイルランド人のイニアス・コフィーが開発した連続式蒸溜機によってグレーンウイスキーが飛躍し、やがてブレンデッドが誕生した。当初、単式蒸溜器、つまりポットスチル蒸溜での製法にこだわりがあるアイルランドの蒸溜業者は連続式にはまったく関心を示さなかったという。コフィーがならば、とスコットランドへ売り込むと、ハイランドモルトへ対抗しようとしていたローランドの蒸溜業者が連続式に飛びつき、グレーンウイスキーが台頭したという流れである。
ハイランドのモルト業者はもちろんだが、アイルランド側もブレンデッドウイスキーとブレンダーたちの勢いに脅威を感じたのである。アイルランド国内にも連続式を設置する蒸溜所が出てきたのだった。

ウイスキー裁判への序章

手を結んだモルト業者は、ブレンドにおいてブレンダーが自分たちのモルトに加え、新規開設のモルト蒸溜所の原酒とグレーンウイスキーの使用比率を高くしていくことが不満だった。そこで熟成期間やブレンドにおける最低モルト配合比率を法制化すべきだと主張しはじめる。なかにはブレンディングはもとよりグレーンウイスキーそのものを認めるべきではない、との強硬派もいた。
1890年、英国議会下院において、この問題に対しての特別委員会が設置される。調査、検討の末、強制的な義務づけは不要、との結論に達した。消費者の動向を見た上での見解だった。ブレンデッド市場は拡大し、品質と価格において需要に合わせることがブレンドの目的である、と結論づけたのである。
これにブレンダーは勇気づけられる。ブレンドに使えるウイスキー原酒の選択は思いのままとなった。ただし、モルト対グレーンの図式はこのままでは終わらなかった。20世紀初頭のウイスキー裁判まで、争いはつづくことになる。
では今回はここまで。次回はウイスキー裁判への動きと、その裁決についての話をしたい。(次回へつづく)

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